「人と人をつなぐ」ことを軸に ─ 墨田から広がる活動の軌跡
墨田を拠点に活動する多賀健太郎さんは、三つの肩書きを持つ。
地域イベントやまちづくり事業を手がける タグ・エー合同会社の代表であり、すみだストリートジャズフェスティバルの実行委員長、さらに墨田区商店街連合会で企画担当として山田昇会長や井上佳洋事務局長を下支えする存在だ。
リンク:タグ・エー合同会社 公式サイト
企業理念:「ひと と ひと を結びつなげる」
社名の「tag-A」はHTMLの <a> タグ(アンカー/Anchor)に由来し、「つなげる」「発信する」という役割を込めている。
人と人をつなぐことを軸に、教育・文化芸術・まちづくりと幅広い分野で活動を続ける多賀さんに、これまでの歩みとこれからの展望を聞いた。
前編:東向島から始まった暮らしと、地域との最初の出会い
すみだ経済新聞: 墨田に住むようになったのはいつ、どんなきっかけだったのでしょう?
多賀健太郎さん: 2011年ごろですね。結婚を前提に同棲することになり、通勤に便利な場所を探して、東向島に部屋を借りました。僕は東武線沿線を利用し、彼女は京成曳舟を使っていたので、ちょうど間を取る形になったんです。当時は地域と関わることもなく、週末は家で過ごすことが多かったですね。
すみだ経済新聞: 住み始めてみて、最初の印象はどうでしたか。
健太郎さん: 当時は高校で教壇に立っていました。非正規でしたが10年ほど続けていました。転勤が多く、部活動の顧問も任されました。学校で教えることは本当に大好きだったので、仕事内容にも満足していました。 それもあって生活は仕事中心で、地域との接点はほとんどありませんでした。
家と職場を往復するだけで、墨田のまちは「ただ暮らしているだけ」の場所でしたね。
建設当時のスカイツリー(写真提供=高田博文さん)
すみだ経済新聞: あの頃は東京スカイツリーが建設中でした。まちの雰囲気に変化は感じましたか?
健太郎さん: そうですね、完成に向けて街の空気が変わりつつあるのを感じました。直接地域に関わっていたわけではないですが、「大きく変わる予感」や「わくわくする感じ」がありましたね。
建設当時のスカイツリー(写真提供=浅見成志さん)
スカイツリー建設期の補足
(編集部注)
東京スカイツリーは2012年に開業。墨田区観光協会の設立など、行政も観光に大きく舵を切った時期だった。墨田区文化振興財団・澁谷哲一理事長は「人口が増えた」と語り、墨田区商店街連合会・山田昇会長は「工場のまちから観光拠点に変わった」と振り返る。
スカイツリー完成前に演出された「光のタワー」(写真提供=和田哲郎さん)
すみだ経済新聞: 学校の先生から転職されたのはどういう経緯だったのでしょう。
健太郎さん: 学校で10年ほど務めましたが、正規採用には至らず、異動も多くて生活の安定が見えませんでした。色々な出来事もあって転職し、食品加工機械の専門商社や音楽業界、IT&地域振興系ベンチャー企業などを転々として働きました。その後、独立し、2019年に法人化して自分の会社を立ち上げました。
ただ、経済的に不安定な時期も重なり、パートナーにはひどく不安を与えてしまい、2020年に離婚も経験しました。コロナ禍では一時的に実家に戻りましたが、結局また墨田に戻り、「地に足をつけて生きていこう」と決めた出来事でもありました。
すみだ経済新聞: 地域と実際につながり始めたのは、どんなタイミングでしたか。
健太郎さん: 転職して土日が休みになり、まち歩きをするようになったことが大きいです。あるとき偶然「向島EXPO」の前身ともいえる「39アート」というイベントを見かけ、長屋のカフェ(ムームーキッチン&サテライトキッチン)に入ったのが最初でした。そこの人たちと仲良くなり、地域とのつながりが一気に広がりました。若い世代の活動を見て「地域って面白い」と思うようになったのはその頃ですね。
すみだ経済新聞: その後、「すみだストリートジャズフェスティバル」とも出会うわけですね。
健太郎さん: 2013年、錦糸町方面にまち歩きしていた途中で、たまたま「すみだストリートジャズフェスティバル(すみだジャズ)」と出会いました。僕も彼女もバンド活動をしていたので出演してみようと思い、出演したのが最初の関わりです。
すみだジャズに出演していた当時の写真(提供=多賀健太郎さん)
2014年に初めて出演して、終演後の打ち上げに参加して人脈が広がり、翌年からはボランティア、さらに実行委員会の活動に関わるようになりました。当時の実行委員長だった能厚準(たくみこうじゅん)さんと山田直大さんに声をかけてもらい、打ち上げ委員会や打ち上げセッション企画を任されたのが最初です。バンドマンとしての楽しさから始まりましたが、運営側に回ることで「まち全体がステージになる」感覚と「観客が歓喜するステージを裏で支える」喜びを強く持ちました。
すみだ経済新聞: 墨田で暮らし続ける中で、生活にどんな変化がありましたか?
健太郎さん: 引っ越しをした業平一丁目のマンションの下に花屋兼カフェがあり、その店の常連になったことで、「ちいさな硝子の本の博物館」の村松栄理さんや「HIS-FACTORY」の中野克彦さんなど、人と人がつながるサードプレイスを得ました。転職を繰り返し、起業後も生活は不安定のままで、離婚をしてしまいました。コロナ禍の影響もあって、そのタイミングで実家に戻りましたが、商店街連合会の井上さんから声をかけていただいたこともあって、半年ほどで墨田区に戻ってきました。僕にとって墨田は「第二のふるさと」だと思っています。
中編へ続く
インタビュー:長尾 円
撮影:宮脇 恒