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すみだ経済新聞 編集長インタビュー 【中編】
宮脇恒さんが語る「まちを編集する」 挑戦、挫折、そして墨田区へ

香港で編集者としての原点を築き、「アジアンビューティー」という概念を生み出した宮脇恒さん。

日本へ帰国後は、香港で培った経験を基に商品開発へ挑み、2006年には独立。「紗の和」という理念を掲げ、シャノワを立ち上げた。

その後、日本文化を海外へ発信する新たな挑戦、地域メディアとの出会い、そしてコロナ禍――。

中編では、シャノワ設立から墨田区との出会いまでの歩みを聞いた。

 

日本帰任と「脱ファンデーション宣言」

すみだ経済新聞:
香港から日本へ戻られます。

宮脇恒さん:
1999年ですね。

香港からフェリシモの本社がある神戸へ戻りました。

香港ではアジアの価値を日本へ届ける仕事をしていましたけど、日本へ戻ってからは今度は自分たちで価値を作ろうという流れになっていきました。

 

すみだ経済新聞:
その時に生まれたのが「脱ファンデーション宣言」。

宮脇恒さん:
そうです。

香港時代に中国美容やアジアの美容文化を見てきた中で、「隠す美容」ではなく、「素肌そのものを整える美容」という考え方がありました。

当時の日本はまだファンデーション中心の時代でしたから、それとは真逆だったんです。

 

すみだ経済新聞:
かなり先進的ですね。

宮脇恒さん:
早かったと思います。

今でこそナチュラルメイクとか素肌感という言葉がありますけど、当時はまだそういう流れじゃなかった。
だから「脱ファンデーション宣言」という言葉自体がインパクトありました。 

すみだ経済新聞:
商品開発も担当された。

宮脇恒さん:
はい。

中国美容文化をベースに、真珠の粉などを活用したオリジナル商品開発もやりました。
単に売るだけじゃなくて、背景や文化も含めて届ける。
香港時代からやっていたことの延長でしたね。

すみだ経済新聞:
一方で難しさもあった。

宮脇恒さん:
ありました。

新しい考え方ほど、既存の価値観とぶつかることもある。
組織には組織の考え方もある。
今振り返ると、関係構築や仕組み化、公との連携など、後の学びにつながった時期だったと思います。
 

フェリシモ退職、そしてシャノワ設立

すみだ経済新聞:
2006年にフェリシモを退職されます。

宮脇恒さん:
そうですね。

語り尽くせないくらい本当に勉強させていただいたし、今でも何かを考える基準は「フェリシモだったらどうするか?」ということ。
DNAに刻み込まれていると思います。



シャノワに込めた「紗の和」という理念

すみだ経済新聞:
その後独立してシャノワを立ち上げます。社名にはどんな意味があるのでしょうか。

宮脇恒さん:
シャノワを漢字で表すと「紗の和」です。

「紗」は、よこ糸にたて糸を絡ませて織る薄絹のことなんです。織り目が粗くて軽い織物なんですが、実は作るのが難しくて、紗織りを知り尽くした職人だけが作れるとも言われています。

すみだ経済新聞:
「和」にはどんな意味があるのでしょうか。

宮脇恒さん:
単に相手に合わせるという意味ではありません。

違いを認め合った上で調和すること。

相手を理解して、お互いの強みを掛け合わせながら、新しいものを作っていく。
そういう意味を込めています。
 

すみだ経済新聞:
それが「紗の和」。

宮脇恒さん:
そうですね。シャノワは、パートナーと互いの強みを掛け合わせ、豊かな未来を共創する会社です。
人と人、人と地域、人と仕事。
違うもの同士が交わり、新しい価値が生まれる。
今振り返ると、その後やってきたことも全部ここにつながっている気がします。

日本の価値を海外へ――兄との再挑戦


すみだ経済新聞:
独立後、お兄さんの宮脇繁さんとの取り組みが始まります。

宮脇恒さん:
そうですね。

前編では「アジアの価値を日本へ届ける」話をしましたけど、今度は逆でした。
「日本の価値を海外へ届ける」です。

すみだ経済新聞:
宮脇繁さんとの役割分担は?

宮脇恒さん:
兄はゼロイチタイプなんです。

新しいものを生み出したり、構想を考えたりするのが得意だった。
僕はそれを引き継いで、形にして、広げて、運営するタイプ。
昔からそんな役割分担でした。
 

すみだ経済新聞:
お兄さんはサブカルチャーがお好きだった。

宮脇恒さん:
そうですね。

漫画、アニメ、キャラクター、音楽。
香港を足がかりに、日本のサブカルチャー文化をアジアへ広げたいと考えていました。
 

すみだ経済新聞:
宮脇さん自身は?

宮脇恒さん:
僕はどちらかというとモノづくりですね。

カバンブランドを作ったり、商品企画をしたり。

今でも和ろうそくブランド(京ROUSOKU+)を運営していますが、

何を作るか、どう見せるか、どう届けるか。

やっぱり編集的なことをやっていました。

すみだ経済新聞:
香港ではヴィレッジヴァンガードも展開します。

宮脇恒さん:
兄はヴィレッジヴァンガードと合弁会社を作って、香港で7店舗展開しました。

日本のサブカルチャーを海外へ届ける拠点づくりでしたね。
 

すみだ経済新聞:
その流れがAKB48へ。

宮脇恒さん:
そうですね。

2010年にAKB48香港ショップを立ち上げました。
当時はAKB48の最盛期でしたから、その勢いというか、破壊力を現場で体感できたのは大きかったです。
日本のコンテンツが持つ力を改めて実感しました。

 

すみだ経済新聞:
2015年にAKB事業から撤退します。

宮脇恒さん:
そうですね。

その前後で、兄は今度は「日本のお菓子文化を海外へ広げる」という事業を始めました。
日本の価値を海外へ届けるという意味では、流れはずっと同じだったと思います。

 

地域メディアとの出会い――伏見経済新聞誕生へ

すみだ経済新聞:
そこから京都との縁が生まれます。

宮脇恒さん:
そうなんです。

日本中を回る中で、京都府向日市のまちおこし団体「京都向日市激辛商店街」の事務局長と出会いました。
気が付いたら兄は事務局長代理になっていました(笑)。

 

すみだ経済新聞:
かなり巻き込まれていますね(笑)。

宮脇恒さん:
そうですね(笑)。

でも面白かったです。
人口4万人の街に10万人を呼ぶ「KARA-1グランプリ」を開催したり、広報や情報発信も担っていました。

 

すみだ経済新聞:
この頃からメディア的な役割が始まる。

宮脇恒さん:
そうですね。

イベントをやるだけじゃ足りない。
自分たちで発信するメディアが必要だと思ったんです。

 

すみだ経済新聞:
それが伏見経済新聞。

宮脇恒さん:
はい。

向日市に隣接する京都市伏見区で、2016年に兄と伏見経済新聞を立ち上げました。
街を歩いて、人に会って、取材して、記事を書く。
今のすみだ経済新聞につながる原型でした。

すみだ経済新聞:
宮脇さんは2017年に編集長へ。

宮脇恒さん:
そうですね。

引き継ぐ形で編集長になりました。
兄がゼロイチを作って、僕が引き継ぐ。
ここでも役割は変わっていなかったですね。

 

東京進出、そしてコロナ禍

すみだ経済新聞:
その後、活動拠点は東京へ移ります。

宮脇恒さん:
2018年頃から東京をベースに活動するようになりました。

ものづくり、プロデュース、地域案件、美容事業など、いろいろやっていました。

すみだ経済新聞:
順調だったのでしょうか。

宮脇恒さん:
いや、全然ですよ(笑)。

本当にたくさん失敗しました。
事業も、人との関係もそうです。

 

すみだ経済新聞:
苦しい経験も多かった。

宮脇恒さん:
そうですね。

一晩中話せるくらい、苦しい経験はいろいろしました。
でも、勉強させてもらいました(笑)。

何が自分の強みなのか。
誰と組むべきなのか。
どういう関係を作るべきなのか。

今となっては逆に学ばせてもらったと思っています。

すみだ経済新聞:
その中でコロナ禍を迎える。

宮脇恒さん:
大きかったですね。

美容事業も含めて環境が一気に変わりました。
それまで積み上げてきたものが崩れていく感覚でした。 

住吉のシェアハウスから始まった再出発

すみだ経済新聞:
そして2023年、江東区の住吉へ。

宮脇恒さん:
そうですね。

いろいろあって、住吉のシェアハウスへ移りました。
正直、どん底でした。
 

すみだ経済新聞:
当時はどんな気持ちでしたか。

宮脇恒さん:
何か始めないといけない。

でも何をやればいいのか分からなかった。
だから毎日のように歩いていたんです。
住吉から墨田の方へ。

 

すみだ経済新聞:
そこで墨田区と出会う。

宮脇恒さん:
そうです。住吉から10分も歩けば錦糸町でしたので、よく歩きました。

スカイツリーや商店街があって、人がいて、イベントがあって、ものづくりがある。
歩ける範囲に面白い人たちがたくさんいた。
「この街、面白いな」って思ったんです。

 

数々の挑戦と挫折を経て、たどり着いた墨田区。

それは宮脇さんにとって、再出発の場所となった。

次回後編では、月間6,000PVから100万PVへ――すみだ経済新聞の成長、市民記者との出会い、そして「まちを編集する」未来について聞く。

(取材・構成:森下八尋 / 監修:宮脇恒)

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