特集

特別企画 大川真智子「隅田川と月-待つ、眺める、重ねる」



隅田川と月-待つ、眺める、重ねる

 9月21日にSIC(墨田区産業共創施設)で開かれた文化トーク「すみだの奥座敷|月を待つ、月を読む-暦とことばでたどる隅田川-」。講師を務めた大川真智子さんが、当日朗読した書き下ろし「隅田川と月-待つ、眺める、重ねる」を掲載する。中秋の名月を入り口に、月を待った人々の文化と、文学に残された隅田川の風景をたどる。

中秋の名月


 令和8(2026)年の中秋の名月は、9月25日である。

 「中秋」とは、旧暦の秋の真ん中という意味である。旧暦では7月・8月・9月を秋としたため、その真ん中に当たる8月15日の月を「中秋の名月」と呼んだ。

 この夜は「十五夜」とも呼ばれ、秋の月を愛でる代表的な夜として親しまれてきた。

 ところが、今年の天文学上の満月はその2日後、27日。「十五夜なのに、満月ではないの?」と思う人もいるかもしれない。

 旧暦では、新月を含む日をその月の1日(ついたち)として数えた。一方、天文学上の満月は、太陽と月が地球を挟んでほぼ反対方向に並ぶ瞬間をいう。月の動きや新月になる時刻は毎回同じではないため、旧暦15日と満月の瞬間は必ずしも一致しない。

 十五夜と満月が同じ日になる年もあれば、1日、2日とずれる年もある。今年はその差が2日ある。

 けれども、昔の人々が月をどのように見ていたのかをたどっていくと、月はただその満ち欠けの形を眺めるだけのものではなかったことが分かる。月を見上げることは、暦や季節を知ることであり、時には人と集まって夜を過ごすことでもあった。
 

月は暦だった

 明治5(1872)年まで日本で使われていたのは太陰太陽暦で、新月を含む日を月の1日(ついたち)として数えた。そのため、3日ごろには細い月、15日ごろには満月に近い月となり、さらに日が進むと月の出る時刻も遅くなっていく。

 現在の私たちは「9月25日」と聞いても、月の形までは思い浮かべない。けれども、旧暦の日付には、今よりずっと月の姿が身近にあった。

月には「待ち方」の名前がある

 十五夜を過ぎると、月が昇る時刻はだんだん遅くなる。月の出は、1日ごとに平均すると50分ほど遅くなるが、その差は季節や月の位置によって変わる。

 そこから生まれたのが、十六夜(いざよい)、立待月(たちまちづき)、居待月(いまちづき)、寝待月(ねまちづき)、更待月(ふけまちづき)といった呼び名である。

 「いざよう」とは、ためらうこと。十五夜より少し遅れて姿を見せる十六夜の月を、ためらいながら出てくるように見立てた。

 十七夜は、立って待つうちに出てくる「立待月」。十八夜は、座って待つ「居待月」。十九夜になると、寝て待つほど月の出が遅くなる「寝待月」。二十日は、夜が更けるまで待つ「更待月」と呼ばれる。

 月の形だけではなく、月が出るまで人がどう待ったのかまで名前にしたところが面白い。昔の月の呼び名には、空の様子だけでなく、それを見上げている人の姿まで残されている。
 

月を待つ夜

 月の出を待つ習俗は、「月待」と呼ばれた。

 十三夜、十九夜、二十三夜、二十六夜など、地域や時代によってさまざまな月待が行われ、人々は「講」と呼ばれる集まりをつくって祈り、飲食を共にしながら月の出を待った。

 二十三夜待ちでは、勢至菩薩を信仰の対象とする例も見られる。

 勢至菩薩は、観音菩薩とともに阿弥陀如来の脇侍を務める菩薩で、阿弥陀三尊の一尊である。智慧の光で人々を照らす菩薩とされ、その「光」のイメージと、夜を照らす月の光とが重なり、月待ちの信仰と結びついていったとも考えられる。

 また、中世の月待板碑には、月天子の本地仏とされた勢至菩薩や、阿弥陀三尊を本尊とする例も見られる。

 ただし、月待信仰の形は全国で一様ではない。地域によっては月読尊や月天、大日如来、地蔵菩薩などと結びつく例もある。「二十三夜=勢至菩薩」と単純に考えるのではなく、月への信仰と仏教、さらに神道的な信仰が、地域や時代によってさまざまな形で重なっていったと見る方が実態に近い。

 各地には「二十三夜」と刻まれた石塔も残る。

 現在なら、月が何時に昇るのかはスマートフォンですぐに分かる。しかし、月がなかなか出てこない夜に、人と集まって食べたり、飲んだり、話をしたりする。月待をたどっていると、「待つ時間」そのものが一つの文化になっていたことが見えてくる。

月が出るまでのにぎわい

 さらに月齢が進んだ二十六夜には、月が姿を見せるのは夜明け近くになる。

 江戸では、とりわけ旧暦7月26日の「二十六夜待ち」が人気を集め、高輪や品川の海辺には大勢の人が月の出を待って集まった。

 歌川広重の「東都名所 高輪二十六夜待遊興之図」には、海辺に並ぶ仮設の茶屋や、月を待つ人々の姿が描かれている。茶屋では飲食をし、物売りも店を出した。

 月を拝むために出かける人もいれば、夜のにぎわいを楽しむ人もいたのだろう。信仰と娯楽をきれいに分けてしまうと、かえって江戸の夜の姿は見えにくくなる。

隅田川は、桜だけの場所ではなかった

 では、隅田川では人々はどんな月を見てきたのだろう。

 昭和2(1927)年、永井荷風は随筆「向嶋」を書いた。関東大震災後、変わりつつある向島を歩きながら、江戸や明治の人々が残した文章を次々と読み返していく作品である。

 向島といえば、今も桜の名所という印象が強い。しかし、荷風がたどった文学の中には、桜だけではなく、川の流れや舟、鳥の声、風、そして秋の月まで、四季折々の隅田川が残されている。

 隅田川は、春だけではなく一年を通して眺め、ことばにする場所だった。

川の向こうに月を見る

 荷風は「向嶋」で、江戸中期の漢詩人・服部南郭について、

「そもそも享保のむかし服部南郭が一夜月明に隅田川を下り『金竜山畔江月浮』の名吟を世に残してより……」

と記している。

 ここで荷風が挙げた「金龍山畔 江月浮かぶ」は、南郭の七言絶句「夜墨水を下る」の第1句である。

 この詩は『南郭先生文集』初編巻五に収められている。

 金龍山畔 江月浮
 江搖月湧 金龍流
 扁舟不住 天如水
 両岸秋風 下二州

 金龍山畔 江月浮かぶ
 江揺らぎ 月湧いて 金龍流る
 扁舟住まらず 天水のごとし
 両岸の秋風 二州を下る

 大意をたどれば、月の明るい夜、隅田川を小舟で下っていく詩である。

 浅草寺のほとりに月が浮かび、水面が揺れると月光もまた揺れる。舟はとどまることなく進み、空と水とが溶け合うような中を、両岸に秋風を受けながら下っていく。

 金龍山は浅草寺の山号、二州は武蔵国と下総国のこと。かつて隅田川は、両国の境を流れていた。

 一首を通して読むと、南郭が見ているのは月だけではない。月を映す川面、進んでいく舟、空、両岸を渡る秋風までを含めて隅田川の夜が描かれている。

 さらに荷風が取り上げるのが、江戸末期の詩人・遠山雲如である。

 雲如は嘉永3(1850)年、『墨水四時雑詠』を刊行した。荷風は「向嶋」の中で、その一首を引用している。

 年年秋月与春花
 行楽何知鬢欲華
 隔水唯開川口店
 背?空鎖葛西家
 紅裙翠黛人終老
 冷?寒烟路自?
 憔悴一般楊柳在
 風前猶剰旧夭斜

 年年 秋の月と春の花と
 行楽して何ぞ知らん 鬢(びん)華(しろ)からんと欲するを
 水を隔てて唯だ開く 川口の店
 ?(つつみ)を背にして空しく鎖(とざ)す 葛西の家
 紅裙翠黛(こうくんすいたい) 人は終(つい)に老い
 冷?寒烟(れいちょうかんえん) 路(みち)は自(おの)ずから?(とお)し
 憔悴(しょうすい)一般の楊柳(ようりゅう)在りて
 風前に猶(な)お剰(あま)す 旧夭(きゅうよう)の斜めなり

 こちらは、毎年巡ってくる秋の月と春の花を楽しむ向島を詠みながら、人は年を取り、川辺の店や街の様子も変わっていくことを重ねている。

 冒頭の「年年 秋の月と春の花と」からは、向島が春の花だけでなく、秋の月を楽しむ場所でもあったことが見えてくる。

 しかし、荷風がこの詩から読んでいるのは、月や花の風情だけではない。

「水を隔てて唯だ開く 川口の店」

「堤を背にして空しく鎖す 葛西の家」

という二句に注目し、三囲堤の下にあった料理屋・葛西太郎の店はすでに閉じていた一方、川を隔てた山谷堀口の川口屋お直の店は、なお繁昌していたことをたどっている。

 一篇の漢詩から、月や花だけでなく、川辺の店、人の集まり、街の盛衰までが見えてくる。

 ことばを読むことで、そこにはもうない店や、かつてそこを行き交った人々の暮らしまでが浮かび上がってくるのである。

「月はまだ出でぬ」墨堤

 荷風は「向嶋」の中で、向島に暮らした幸田露伴の文章も紹介している。

 明治34(1901)年刊の幸田露伴『長語』に収められた「春の墨堤」である。

 露伴は、夜の墨堤について次のように書いた。

「夜やゝふけて、よその笑ひ声も絶ゆる頃、月はまだ出でぬに歩む路明らかならず、白髭あたり森影黒く、交番所の燈のちらつくも静なる趣を添ふる折ふし、五位鷺などの鳴きたる。」

 華やかな花見の昼とは違い、人の笑い声が消え、月もまだ出ていない。森影は黒く、交番所の灯がちらつき、五位鷺の声だけが聞こえる。

 これは、二十三夜待ちや二十六夜待ちを描いた文章ではないし、露伴がここで月待をしていたわけでもない。それでも「月はまだ出でぬ」という一節には、夜が更けても月の現れない川辺を歩く時間が、そのまま残されている。

 月を見る風景だけでなく、まだ月のない夜を歩く風景もまた、隅田川の文学に書き留められていた。

水の東京に月が昇る

 露伴は「水の東京」でも、東京と月について印象的な文章を残している。

 まず、武蔵野の昔の月について、

「草より出でゝ草に入る」

と書く。

 家々の建ち並ぶ東京なら、

「家の棟より出でゝ家の棟に入る」

ともいえる。

 その上で、水の都市として東京を眺めるなら、月は、

「水より出でゝ水に入る」

ともいえる、と記した。

 ここで露伴がいう「水」は、隅田川だけではない。東京を縦横に流れていた川や堀、運河、そして海まで含む「水の東京」全体である。

 その水の世界を語るに当たって、露伴が最初に取り上げるのが隅田川だ。隅田川について、露伴は次のように記している。

「水の東京におけるの隅田川は、網におけるの綱なり、衣におけるの領なり」

 ここでいう「領」は「えり」と読む。露伴は隅田川を、網を支える主な綱や、衣の形をなす襟にたとえている。東京には多くの川や堀、運河があるが、その水の世界の骨格をなす大きな存在が隅田川だ、という意味である。

 さらに上流へ筆を進めると、露伴は塩入付近を中秋の月見にふさわしい場所として詳しく描いている。塩入は、現在の荒川区南千住8丁目、都立汐入公園周辺に当たる。

 露伴は、川が東西に流れる場所では、月が、

「河水の水面よりさし昇る」

ように見えるといい、水面に映る月光についても、

「浪に砕くる清き光の白銀を流すが如くいと長く曳きてきらきらと輝く」

と書いている。

 そして、この辺りについて、

「東京広しといへども仲秋の月見にはこのあたりに上越したる好き地あるべくもあらず」

とまで評した。

 露伴にとって月は、空だけを見るものではなく、流れる水や潮、水面に伸びる光まで含めて味わう風景だった。

ことばの向こうの向島

 荷風が「向嶋」を書いた昭和2年、隅田川両岸では震災後の復興工事が進んでいた。

 荷風は隅田川両岸の景色について、遠からず大きく変わり、昔の風景は、

「前代の絵画文学について見る」

ほかなくなるだろうと記している。

 だからこそ、荷風は先人の書き残したことばを読み返す。南郭や雲如の漢詩、そして露伴の随筆。そのことばをたどりながら、目の前の向島の風景の奥に、先人たちがかつて見た隅田川の姿を浮かび上がらせていく。

 そう考えると、「向嶋」という随筆自体が、一種の文学散歩のようにも読める。荷風は向島を歩きながら、同じ場所に積み重なった過去の風景をことばの中から呼び戻している。

そして今年の月を見る

 今年、令和8年の中秋の名月は9月25日。

 露伴や荷風が見た隅田川と、現在の隅田川は大きく違う。橋は架け替えられ、東京スカイツリーがそびえ立つ。川には、宇宙船を思わせる「ヒミコ」や「エメラルダス」のような観光船が行き交い、その間を昔ながらの屋形船が行く。新しい東京と、どこか江戸の名残をとどめた風景とが、一つの川の上で不思議に交差している。

 それでも向島側から川を見れば、対岸には浅草の街があり、浅草寺や待乳山聖天の堂宇がある。そして、かつてこの風景を見た人々のことばも残っている。

 そのことばを知ってから隅田川を見ると、見慣れた川や橋、向こう岸の景色にも、そこを眺めてきた人々の時間が重なっていることに気づく。露伴や荷風が見た風景は失われても、そのことばまで消えたわけではない。

 ことばを手がかりにすれば、今の隅田川の向こうに、かつての風景を少しだけ重ねて見ることができる。

主な参考文献・資料

・国立天文台「中秋の名月(2026年9月)」

・歌川広重「東都名所 高輪二十六夜待遊興之図」
 東京都江戸東京博物館所蔵
 出典=Tokyo Museum Collection

・歌川広重「東都名所 両国之宵月」
 The Metropolitan Museum of Art所蔵

・服部南郭「夜墨水を下る」『南郭先生文集』初編巻五
 ※永井荷風「向嶋」では第1句「金竜山畔江月浮」を引用

・遠山雲如『墨水四時雑詠』
 永井荷風「向嶋」に引用

・幸田露伴「春の墨堤」『長語』、春陽堂、1901年
 国立国会図書館デジタルコレクション
 永続的識別子:info:ndljp/pid/889169

・幸田露伴「水の東京」青空文庫
 底本『一国の首都 他一篇』岩波文庫、岩波書店、1993年

・永井荷風「向嶋」
 底本『荷風随筆集(上)』岩波文庫、岩波書店、1986年

・福田アジオ・新谷尚紀・湯川洋司・神田より子・中込睦子・渡邊欣雄編
 『日本民俗大辞典 下 た―わ・索引』吉川弘文館、2000年

・福田アジオほか編
 『精選日本民俗辞典』吉川弘文館、2006年

・飯田道夫
 『日待・月待・庚申待』人文書院、1991年

エリア一覧
北海道・東北
関東
東京23区
東京・多摩
中部
近畿
中国・四国
九州
海外
セレクト
ALL