危機を乗り越え、私益を公益へ変えてきた人生
60億円の相続税から始まった挑戦

八広の町名誕生60周年を記念し、2026(令和8年)8月8日に開かれる「八広八八祭り」。16町会全ての参加を実現し、888人によるちょうちん行列などの記念事業を進めてきたのが、事業発起人でホンダ地所会長の本多信悟さんだ。
本多さんは、1994(平成6)年に京成荒川駅を「八広駅」へ改称する活動に携わり、2024年には駅名改称30周年記念イベントを実現した。
地域の未来を考え、町会や学校、企業をつなぎながら活動を続ける本多さん。その原点をたどると、1990年に直面した巨額の相続と、本多家を守るために奔走した日々に行き着く。家族と家を守るために始めた事業は、駅名変更へとつながり、やがて地域のための活動へと広がっていった。
本多さんに、本多家との出会いから人生最大の危機に向き合った日々について聞いた。
すみだ経済新聞:
本多さんと墨田との関わりは、どのように始まったのですか。
本多信悟さん:
私は三重県いなべ市の出身です。27歳の時に妻と結婚して、本多家に入りました。
妻とは大学時代からの同級生だったんですが、大地主の家の一人娘だなんて知らなかったんですよ。
すみだ経済新聞:
初めて本多家を訪れた時のことを覚えていますか。
本多信悟さん:
覚えていますよ。
結婚することになって、妻の家へ行ったんです。現在の会社事務所から道を挟んだ向かい側、今はマンションが建っている場所に、当時は1200坪の屋敷がありました。
平屋の大きな家で、最初はどこから入ればいいのか分からなかった。玄関が3つもあるんですよ。「これは寺か」と思いました(笑)。
とりあえず玄関らしいところから入って、寺じゃなかったので安心しました(笑)。
すみだ経済新聞:
結婚について、ご家族はどのような反応でしたか。
本多信悟さん:
父には反対されましたね。
「おまえ、そんなところへ養子に行ったら困るぞ。身分が違いすぎる」と言われました。
私は27歳で若かったですから、「そんなの関係ないよ」と思っていました。
ただ、父は本多家の歴史を知っていたんですね。
本多平八郎忠勝は徳川四天王の一人で、後に桑名藩主になりました。私の故郷のいなべ市は、桑名市のすぐ隣です。
父はそうした歴史を知っていたからこそ、本多家に入って大丈夫かと心配したんだと思います。
私は当時、そんなことを何も知りませんでした。ただ好きな人と結婚したかっただけなんですけどね(笑)。でも今振り返ると、ご縁を感じずにはいられません。

すみだ経済新聞:
本多家に入る前、お仕事は何をされていたんですか。
本多信悟さん:
学生時代から、地元出身の国会議員のところで書生をしていました。議員会館へ行って、いろいろとお手伝いをしていました。
地盤も看板も何もありませんでしたけど、いつか政治家になりたいと思っていました。
すみだ経済新聞:
結婚によって、その人生設計は変わりましたか。
本多信悟さん:
本多家から「政治の道はやめてください」と言われました。
昔は資産家が政治にお金をつぎ込んで、資産を失うことも珍しくなかった。そういうことを心配していたんだと思います。そこで政治の道は諦めて、本多家の仕事を手伝うようになりました。
親族一同からは資産を狙った結婚ではないかなどと、随分警戒されました。
最終的には結婚はするが、養子縁組はしない。
すなわち相続権がない形で落ち着きました。
すみだ経済新聞:
その後、本多さんの人生を大きく変える出来事が起きますね。
本多信悟さん:
そう、1990年に先代が亡くなりました。
時代的にバブルが弾けて土地の課税評価が非常に高い時期でした。
60億円もの相続税が課せられました。
すみだ経済新聞:
とても想像できない金額です。
相続税以外にも、問題を抱えていたのでしょうか。
本多信悟さん:
相続税だけではなく、親族との間で遺留分の問題もありました。
トータルで100億円くらい必要でした。
土地は持っていても、現金をたくさん持っているわけではありません。
相続税を払わなければならないし、親族との問題も解決しなければならない。
突然、途方もない金額を用意しなければならなくなりました。

すみだ経済新聞:
経験のない問題に直面し、最初に何から始めましたか
本多信悟さん:
相続について勉強するところからですよ。
それまで私は相続について詳しく勉強したこともありませんでしたから、そこから急いで勉強しました。
時期も悪かったですね。バブル崩壊で金融機関の融資も厳しくなっていました。
親族との相続問題では、遺留分請求権で所有していた物件の家賃収入を差し押さえられるようなこともありました。
私も妻も、最初はそんなことが進んでいることさえ知らなかったんです。
すみだ経済新聞:
それは大変でしたね。
そこまで追い詰められた時期、どのようなことを考えていましたか。
本多信悟さん:
家族を守ることだけでした。
もう誰かが悪者にでもならなければ収まらない。私は悪者でも何でもいいと思いました。
とにかく本多家を守らなければいけない。
それだけでした。
すみだ経済新聞:
当時の日々を象徴するような出来事はありますか。
本多信悟さん:
とにかく眠れなかったですね。
朝の3時、4時まで、どうすればいいのか考えていました。
当時、わが家では妻がチャボを100匹ほど飼っていたんですよ。
朝方になってようやく少し眠れそうになると、チャボが鳴き始めるんです。
普通のニワトリの「コケコッコー」という鳴き声とは違って首を絞められたような声で鳴くんです(笑)。
こっちは一晩中、どうやってこの危機を乗り越えるか悩んでいる。その末に、ようやく眠れそうになったところで、100匹ほどのチャボがそんな声で鳴き始める。
もう耐えられなくなってしまってね(笑)。
それで、最初は実家に引き取ってもらえないかと考えました。でも実家では飼うことが難しかったので、最終的には熱田神宮に引き受けていただきました。
うちのチャボが最終的には神鶏になったんですよ(笑)。
今では笑い話ですけど、当時はそれくらい追い詰められていました。
すみだ経済新聞:
奥さまとは、どのように苦境を乗り越えようとしていたのでしょうか。
本多信悟さん:
最後はもう、神様、仏様しかないと思いました。
週末になると妻と一緒に寺社を巡りました。
坂東三十三観音や秩父三十四観音、四国八十八ヶ所など、いろいろなところを回りました。
本当に、今の自分があるのは神仏のご加護があったからだと思っています。
すみだ経済新聞:
60億円という相続税を前に、どんな方法があったんでしょうか。
本多信悟さん:
土地を持っていても、それだけでは相続税は払えません。
現金に換えていかなければならない訳ですよ。
土地を売るだけでは到底難しく、マンションを建てるしかなかった。
私は不動産開発の経験なんてありませんから、デベロッパーと組んでマンションを建てて分譲していきました。
125世帯のマンション、70世帯を超えるマンション、80世帯を超えるマンションと、次々に建てていきました。
すみだ経済新聞:
当時の本多さんを突き動かしていたものは何だったのでしょうか。
本多信悟さん:
とにかく必死でした。
家族を守る。本多家を守る。税金を払う。
そのことしか考えていませんでした。
今だからいろいろなことを客観的に振り返れますけど、当時は自分のことで精いっぱいでした。
すみだ経済新聞:
マンション開発を進める中で、どんな課題が見えてきましたか。
本多信悟さん:
駅ですよ。
当時の荒川駅は古くて、駅舎も傾いていました。
それに「荒川駅」という名前でしょう。荒川区にある駅だと勘違いする人も多かった。
実際は墨田区にあるのに、駅名だけを見れば分からない。

駅は街の玄関ですからね。
マンションを建てても、この駅では人に来てもらえないんじゃないか。せっかくマンションを造っても、買ってもらえないんじゃないか。
「この駅を何とかしなければいけない」と考えました。
家族と本多家を守るため、巨額の相続税と向き合い、土地を事業へと変えていった本多さん。その行動の出発点は、地域貢献という大義ではなかった。自分と家族が生き残るための、切実な「私益」だった。
分譲マンション開発を進める中で、本多さんの前に新たな課題が現れた。地域の玄関である荒川駅を何とかしなければならない。
中編では、本多さんが駅名変更に向けて動き始めた経緯と、荒川駅から八広駅への駅名変更を巡る舞台裏、その後のまちづくりについて聞く。
(取材・構成:森下八尋/監修:宮脇恒)