自分のために始めたことが、まちを変えた?荒川駅から八広駅へ、30年を超えた物語

1990(平成2)年、先代の死去によって巨額の相続税や親族との相続問題を背負うことになった本多信悟さん。土地はあっても、相続税を支払うための現金がない。大手銀行からは融資をことごとく断られる中、本多さんは所有する土地に分譲マンションを建て、売却することで資金をつくる道を選んだ。
しかし、そこで新たな問題が持ち上がる。
最寄りの京成荒川駅は古く、駅舎は傾いていた。駅名から「荒川区にある駅」と勘違いされることも多かったという。駅は街の玄関。このままではマンションを建てても売れない。
本多さんは行動に出る。
本多さんに、荒川駅から八広駅への駅名変更を巡る舞台裏と、その30年後の物語を聞いた。
すみだ経済新聞:
荒川駅を何とかしなければならないと考え、最初にどのような行動を起こしましたか。
本多信悟さん:
まずは京成電鉄さんにお願いするしかないですよね。
でも、私は鉄道のことなんて何も知りませんから、誰か紹介してくれる人はいないかと探しました。
金融機関を通じて、京成電鉄さんの幹部を紹介していただきました。
それで、お会いして「荒川駅を八広駅に変えてください」とお願いしました。

すみだ経済新聞:
京成電鉄には、駅名変更の必要性をどのように説明しましたか。
本多信悟さん:
駅を取り巻く町は八広です。
それなのに駅の名前は荒川駅だった。
「駅を取り巻く町の名前に変えてください。八広駅にしてください」とお願いしました。
とにかくマンションを建てて売らなければいけない。税金を払わなければいけない。
マンションを見に来た人が、古くて傾いた駅舎を見てどう思うか。
だから何とかしてほしいと、何度も何度もお願いに行きました。
すみだ経済新聞:
交渉は大変でしたか。
本多信悟さん:
今考えると、よくあれだけ通ったと思います。
京成電鉄さんからすれば、「またあいつが来た」と思っていたでしょうね(笑)。
すみだ経済新聞:
長く続いた陳情の中で、状況を動かす出来事があったとか。
本多信悟さん:
そう、荒川を行き来する船が橋脚にぶつかって、橋を架け替えることになりました。
それが大きな契機になりました。

すみだ経済新聞:
橋の架け替えは、駅名変更にどのようにつながったのでしょうか。
本多信悟さん:
橋の架け替えに合わせて、駅も新しくなることになりました。
ちょうどその頃、京成電鉄さんは成田の手前で大規模な開発を進めていて、公津の杜(こうづのもり)駅という新しい駅を造ることになっていました。
この機会にということで、内々に公津の杜駅が開業する1994年4月1日に合わせて、荒川駅も八広駅へ変えようという話になったと聞きました。
すみだ経済新聞:
ついに願いが叶った訳ですね。その先は順調だったんですか?
本多信悟さん:
とんでもない。
そこから先にまた壁がありました。
当時、会社としても、ただ駅名を変えますというだけでは難しかったんでしょうね。
駅名を変えるための大義名分が必要だったようです。
そんな訳で、京成電鉄からは「地元から駅名を変えてほしいという要望がある形にしたい。町会の同意を取って陳情書として提出してほしい」と言われました。
駅の周辺にはいくつもの町会があります。
町会長さんたちに説明して、八広駅への変更をお願いする書面をもらってこなければならない。
しかも内々に合意が取れたことは内緒にしないといけない。
大変な宿題ですよ。
もしかしたら、そんなことを言えば私が諦めると思ったのかもしれません(笑)。
でも、こちらは必死ですから、諦めるという選択肢はありませんでした。
すみだ経済新聞:
町会から同意を得るために、どのように働きかけましたか。
本多信悟さん:
一つずつ町会長さんのところへ行きました。
私はまだ40歳くらいで、町会長さんたちは皆さん年上です。
「荒川駅を八広駅に変えたい。駅を取り巻いている町は八広なのだから、駅の名前も八広にしたい」と説明して回りました。
最初から理解してくださる方もいれば、きちんと説明しなければならない方もいる。
それでも一人ずつ会って、話をして、同意をいただきました。
そうして集めた陳情書を京成電鉄さんへ持って行きました。
すみだ経済新聞:
町会の同意を得て、駅名変更がついに実現します
本多信悟さん:
1994(平成6)年4月1日、荒川駅が八広駅に変わりました。
同じ日に公津の杜駅が開業しました。
こちらは駅名変更で、向こうは新しい駅の誕生ですが、同じ1994年4月1日です。
だから私は、八広駅と公津の杜駅は同じ誕生日だと思っているんですよ。
それも一つのご縁ですよね。
すみだ経済新聞:
駅名変更当時、その経緯は八広一帯でどの程度知られていたのでしょうか。
本多信悟さん:
駅名変更の祝賀会を開催して、地域を挙げてお祝いしました。
ただ、駅名が変わるまでにどんなことがあったのか、地元の人たちはほとんど知らなかったと思います。
私も当時は、自分たちのことで精いっぱいでしたからね。
その経緯を地域に伝えようとか、子どもたちに残そうとか、そこまで考える余裕はありませんでした。
すみだ経済新聞:
ではここで、時計の針を進めたいと思います。
2024年に「八広駅誕生30周年記念」のイベントを開催されました。
30年という時間を経て、駅名変更の歴史を残そうと考えたのはなぜですか。

本多信悟さん:
八広駅が誕生して30年になると気付いた時に、この歴史をちゃんと子どもたちに伝えなければいけないと思いました。
当時の町会長の皆さんは年上の方がほとんどで、鬼籍に入られた方も多い。
今の子どもたちは、昔この駅が荒川駅だったことも知らないでしょう。
なぜ八広駅という名前になったのか。
地域の大人でも知らない人がたくさんいます。
私が知っていることを、私が元気なうちに伝えておかなければ、全部消えてしまいますからね。
ですので、イベントお祝いするという形で皆さんにお伝えさせていただきました。

すみだ経済新聞:
30周年記念イベント時には。どのように地域を巻き込んでいきましたか。
本多信悟さん:
まず京成電鉄さんに相談しました。
そうしたら「協力します」と言ってくださった。
それから駅周辺の町会に声をかけ、学校にも相談しました。
八広小学校の校長先生に話をしたら、「全面的にやりましょう」と言ってくださって、学校も使わせていただき、子どもたちも参加してくれました。
PTAや青少年育成委員会など、いろいろな方々も協力してくれました。
すみだ経済新聞:
イベントの当日はいかがでしたか。
本多信悟さん:
3500人から4000人くらいの人が来てくれました。
子どもたちもたくさん参加してくれて、地域の皆さんが集まってくれた。
30年前、駅名を変えた時には考えもしなかったことです。
すみだ経済新聞:
30年前の自分と、現在の活動を比べて、どのように感じていますか。
本多信悟さん:
30年前は、自分のことで必死でした。
相続税を払わなければいけない。マンションを売らなければいけない。
駅名を変えてほしいとお願いしたのも、そのためです。
でも、30年たってみると、八広駅という名前は地域のものになっている。
子どもたちが八広駅を使って学校へ行ったり、家族で出かけたりしている。
そういう姿を見ると、駅名を変えていただいて良かったと思います。

すみだ経済新聞:
八広駅と同じ日に誕生した公津の杜駅についてはいかがですか。
本多信悟さん:
公津の杜との交流をしたいですね。
八広駅が誕生した1994年4月1日に、公津の杜駅も誕生しました。
同じ京成電鉄の駅で、同じ日に生まれた兄弟みたいなもの。
でも、公津の杜の方たちは、八広駅とのそんな縁を知らないでしょう。
八広の人たちも知らない人が多い。
まずは、お互いの地域を知るところからですよね。
子どもたちが交流してもいい。
イベントにお互いが参加してもいい。
せっかく同じ日に生まれた駅ですから。八広と公津の杜の交流が続いていったらうれしいですよね。
ご縁というのは、大切にしなければいけないと思っています。
余談ですが、現在の押上・曳舟・八広の兼任駅長は、公津の杜のご出身だそうです。
すみだ経済新聞:
相続危機を乗り越えるために始めた不動産事業は、その後、どのように変わりましたか。

本多信悟さん:
相続の問題を乗り越えるために、最初は分譲マンションを建てて売りました。
その後は、賃貸マンションを建てるようになりました。
100戸を超える規模の賃貸マンションです。当時、墨田区では初めての規模でした。
そんな大きな規模のマンション、埋まる訳ないと言われ、大手銀行からは融資を断られました。
その時、東京東信用金庫(ひがしん)さんには、随分と助けていただきました。
すみだ経済新聞:
なぜ分譲ではなく賃貸だったのでしょうか?
本多信悟さん:
この地域では防災視点が重要で、近くを流れる荒川が氾濫した時のことを考えなければいけません。
ただ建物を建てればいいということではありません。
例えば、賃貸マンションは管理物件なので、災害時には共用部分を避難スペースとして活用できます。一方で、分譲マンションは管理組合などとの調整が必要になり、同じようにはいきません。
そういう意味で、賃貸マンションを増やしました。
先程お話しした防災視点について補足すると、大きな道路に面した場所にはマンションを建てることで、もし水が来た時には建物が防波堤の役割を果たしてくれます。
一方、奥側には戸建てを配置し、道路も整備しました。昔からの街は道が狭く、火災が起きても消防車が入れない場所があります。奥まで消防車が入れるよう道路の幅を確保し、道路沿いには高い建物、その奥には戸建てを配置する。建物を一つ建てるのではなく、まち全体をどう守るかを考えてきました。
すみだ経済新聞:
興味深いお話です。
本多信悟さん:
荒川が氾濫した時には、高い場所へ逃げなければいけません。
しかし、高齢者もいます。小さな子どももいます。地域の全ての人が遠くまで避難できるわけではありません。
それなら、地域にある高い建物へ一時的に避難できるようにした方がいい。
賃貸マンションでも分譲マンションでも、災害時には地域の人が3階以上に避難できるような仕組みが必要だと考えています。
地域のマンションと避難についての協定を結べないかとも考えています。
災害が起きてから話をしている時間はありません。
普段から話し合い、災害時には地域の人が避難できるようにしておく。
自分の建物だけが安全ならいいということではありません。
相続税を払うために分譲マンションを建て、そのマンションを売るために駅名変更を求めた本多さん。
京成電鉄へ陳情を重ねる中、船の橋脚への衝突を契機に橋の架け替えが決まり、駅も新しくなることになった。さらに公津の杜駅の開業というタイミングが重なった。最後に本多さんに課されたのが、地域の町会を一つずつ回り、駅名変更への同意を取り付けることだった。
始まりは、自分と家族を守るためだった。 30年後、本多さんは、八広駅誕生の歴史を子どもたちに伝えるために、地域の人たちと記念イベントを実現した。
不動産事業もまた、相続税を払うための分譲マンション開発から、地域の暮らしを支える賃貸住宅へ、さらに洪水や火災から命を守ることを意識したまちづくりへと広がっていった。
そして本多さんの視線は、八広というまち全体の未来へと向かう。
後編では、町名誕生60周年を迎える八広で、なぜ16町会全ての参加にこだわったのか。888人のちょうちん行列に込めた平和への願い、「笑いの街」「多幸の街」という未来像について聞く。
(取材・構成:森下八尋/監修:宮脇恒)
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