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「すみだ活性化のキーパーソンが語る墨田と私」 中田清史さん 東京東信用金庫 会長(前編)

久慈から東京へ 中田清史さんの信用金庫人生の始まり

すみだ活性化のキーパーソンが語る「墨田と私」
東京東信用金庫 会長 中田清史さん

 1955(昭和30)年、岩手県久慈市に生まれた中田清史さん。大学進学のために上京し、1978(昭和53)年、東武信用金庫に入庫した。融資や営業の現場を歩き、支店長として信用金庫の合併や店舗統合を経験。東京東信用金庫の理事長を経て、現在は会長を務める。全3回のインタビューの前編では、久慈での少年時代から、音楽に熱中した学生生活、結婚と就職までの歩みを聞いた。

昭和30年生まれ、久慈で過ごした少年時代

すみだ経済新聞──お生まれになった年や、育った場所について教えてください。

中田さん:1955(昭和30)年に、岩手県久慈市で生まれました。後にNHKの朝ドラ「あまちゃん」で知られるようになったところですね。高校まで久慈で過ごしました。

 私が生まれた昭和30年は、戦後の日本が高度経済成長へ向かっていく時期でした。左右に分かれていた社会党が統一し、保守勢力も合同して、「55年体制」ができた年です。海外では、ソ連と東欧諸国がワルシャワ条約を結ぶなど、国際情勢も大きく動いていました。

 同じ昭和30年生まれには、相撲の千代の富士さん、野球の江川卓さんや掛布雅之さん、ボクシングの具志堅用高さんなどがいます。そういう方々と同じ時代を生きてきたわけですね。

すみだ経済新聞──ご家族や、子どもの頃の暮らしについて教えてください。

中田さん:3人兄弟で、私が小学2年の時に母親を病気で亡くしました。すぐ上の兄は2歳上で、一番上の兄は、当時もう大工の仕事で働きに出ていました。

 父は左官の仕事で出稼ぎに出ていて、普段はお盆と正月以外、家にいませんでした。それまでは母が私たちの面倒を見ていたので、母がいなくなると、生活が立ち行かなくなってしまう。父が再婚して、育ての母親が来てくれたことで、私たちは助かりました。

 ただ、やっぱりお互いに遠慮はありましたね。言いたいことを何でも言えるわけではない。友達がお母さんに何でも言っているのを見ると、羨ましかったですよ。小学生なのに、子どもらしく甘えることが難しかったんですね。

 育ての母親も、実の子どもではない私たちを育てるのは、いろいろあったと思います。今振り返れば、その中で育ててくれたことへの感謝ですね。

すみだ経済新聞──ご自身は、どのようなお子さんでしたか。

中田さん:難しかったと思いますよ。面倒くさいというかね(笑)。好き嫌いが多くて、食べ物もそうだし、着る物もそうでした。母親が買ってくれた物でも、気に入らなければ着なかったらしいです。

ソフトテニスから、マンドリン部でのギターへ

すみだ経済新聞──中学・高校時代は、どのような活動をしていましたか。

中田さん:中学ではソフトテニスをやっていました。一番上の兄がギターを弾いていたので、私も練習するようになって、高校ではマンドリン部に入りました。マンドリンは弾けませんでしたが、ギターが弾けたので、ギターを担当しました。指揮をしたこともあります。

すみだ経済新聞──当時、将来の進路をどのように考えていましたか。

中田さん:父や兄のように、職人の道へ進むことは考えていませんでした。ただ、大学を出て何になるか、はっきり決めていたわけではありません。

 大学に行かせてもらって、仕送りもしてもらいました。父だけでなく、一番上の兄も資金の援助をしてくれました。それは本当にありがたかったですね。

雨の夜、父と兄に送られて東京へ

すみだ経済新聞──大学進学で上京した時のことを教えてください。

中田さん:3月の寒い夜で、大雨でした。兄が運転する車に布団を積んで、父も一緒に、久慈から東京へ向かったんです。

 国道4号線を走っていると、大型トラックが道路の雨水を跳ね上げて、こちらのフロントガラスに叩きつける。外は暗い山道で、センターラインもはっきり見えません。それでも、トラックの後をついていくしかない。怖くて、目をつむって、雨がやんで早く夜が明けることを祈っていました。

 板橋の下宿に着いたのは、翌日の午後です。およそ18時間かかりました。一番疲れたのは、ずっと運転していた兄ですよね。夕方、3人で銭湯に行ったら、兄がめまいで倒れてしまったんです。しばらく休んで回復しましたけれど、びっくりしたし、そこまで疲れさせてしまったことが申し訳なくて。

 その夜は四畳半の部屋で3人で寝ました。翌朝、私が目を覚ますと、もう父と兄はいませんでした。朝早くに出発して、故郷に帰ったんですね。その時の何とも言えない心細さは、今でも鮮明に覚えています。

すみだ経済新聞──東京では、どのような暮らしをしていましたか。

中田さん:家族が、1人で生活したことのない私のために、賄い付きの下宿を探してくれました。そこには4年間お世話になりました。

 ただ、せっかくの賄い付きなのに、朝は寝坊して食べられず、夜はアルバイトで食べられない。何のための賄い付きだったのか分からない生活でしたね(笑)。

フォークソングに夢中になった学生時代

すみだ経済新聞──大学時代は、どのように過ごしていましたか。

中田さん:周りにギターをやっている友達ができて、大学ではギタークラブに入りました。当時はフォークソングの全盛期でしたから、友達とバンドを組んで演奏していましたね。

 髪を長くして、イヤリングもつけて、パッチワークのジーンズにロンドンブーツ。そんな格好で4年間過ごしました。ステージにも立ちましたよ。

すみだ経済新聞──卒業後の進路は、どのように決めたのでしょうか。

中田さん:当時、同じクラスで付き合っていた女性がいて、結婚しようと思っていたんです。それなら、生活が安定するところがいいのかなと考えました。

 井上陽水さんや、かぐや姫が歌っていた時代です。「神田川」のような世界にも憧れましたね。

結婚を決めて、信用金庫へ

すみだ経済新聞──信用金庫に就職した経緯を教えてください。

中田さん:実は、信用金庫がどういうところか、あまり分かっていませんでした。板橋区役所の近くに住んでいて、近くに東京信用金庫さんの支店があったので、信用金庫というのはこういう感じなのか、と見ていました。

 就職の本で見つけて、最初に受けた金庫から内定をもらったので、ほかは受けずに、ここにしようと。それも縁ですよね。

 金庫に入る前に髪をばっさり切って、3月24日に籍を入れました。人事部には、結婚したのですが入ってもいいですか、と聞きに行きました。いいよ、と言ってもらって。22歳で結婚してからの入庫でした。

すみだ経済新聞──結婚と就職を、どのような気持ちで迎えましたか。

中田さん:生活がかかっていますから、辞めるということは全然考えませんでした。それが良かったのかどうかは分かりませんけれど。だって、生活がかかっていたら辞められないでしょう。

 入庫前に入籍したのが今の妻です。結婚式は翌年に挙げました。その後、子どもが2人生まれました。

(取材・構成:森下八尋 / 監修:宮脇恒)
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